ここまで、前田西前田原B丘陵とC丘陵の調査成果を述べてきた。最後に、これらの成果から前田 西前田原地区の墓の様相について、周辺地区の調査成果などを参照しつつ、その特徴について総括を 行う。
1.前田西前田原地区の墓域の展開について
前田西前田原B丘陵とC丘陵の二つの丘陵の墓域の年代観としては、遺構の形状や出土遺物の型式 などから考えて、おそらく 18 世紀中頃から後半には墓が造られはじめ、複数の墓がある墓域として機 能していたと考えられる。この時期の遺構としては、墓室形状や出土遺物から前田西前田原B丘陵の 6 号墓や 42 号墓を比較的早い時期の遺構と想定した。ボージャー形の蔵骨器が出土している点からは、
同じく前田西前田原B丘陵の 31 号墓や 41 号墓もそれに近い年代には機能していた可能性がある。
同丘陵のすぐ北側に位置する前田西前田原A丘陵の調査報告のなかで、4 号墓が遺物の出土がない なかで遺構形状が 2 類 b であることを根拠に、その形成年代について 17 世紀代まで遡る可能性が示 された(浦添市教育委員会 2015)。しかし、今回遺物を伴って出土した前田西前田原B丘陵の 6 号墓 や 42 号墓が同様のタイプ(2 類 b)で、18 世紀中頃から後半の遺構であると想定されることや、前 田西前田原A丘陵の 28 号墓から検出された蔵骨器から「乾隆六拾年」(1795 年)の銘書が確認され ていることを踏まえると、前田西前田原A丘陵の年代観についても 18 世紀中頃から後半の年代が妥 当であると考えられる。以上をふまえると、概ねこの時期には、前田西前田原A丘陵からB丘陵を含 む前田西前田原地域に墓が展開し、墓域の形成が始まったと考えられる。
その後、前田西前田原B丘陵では、上記の墓に加えて主に丘陵斜面の中段において、墓室内に棚が 造られる比較的定型的な墓が造られ、その後 19 世紀中頃から 20 世紀にかけて丘陵の裾部に 38 号墓 や 51 号墓、55 号墓、56 号墓といったような小規模な墓が展開していく様相が想定される。前田西 前田原C丘陵では、比較的大型の 7 号墓から 9 号墓の遺構の年代観については不明であるが、このよ うな定型的な墓室を有する墓の周辺に不定形で小規模な墓が多数造られる傾向は、前田西前田原B丘 陵と共通する。前田西前田原C丘陵の 13 号墓の遺物の年代観は 19 世紀の中頃以降であり、前田西 前田原B丘陵の裾部に展開する小規模な墓の年代観と概ね一致する。これらのことから、前田西前田 原C丘陵については、前田西前田原A丘陵やB丘陵より少し時期が降る可能性があるものの、19 世 紀以降については、同様の展開をみせるものと考えられる。
このような前田西前田原地区における墓域の年代観は、既往の調査成果と比較すると、経塚の南小 島原A丘陵で 18 世紀初めの銘書が確認されていることや(浦添市教育委員会 2014)、前田真知堂A 丘陵では 18 世紀前半頃から墓が造られ始めた可能性があること(浦添市教育委員会 2015)などと 比較すると、若干造墓の開始時期が遅い可能性があるものの、18 世紀中頃から 19 世紀にかけて墓域 が展開する様相は、前田真知堂地区のB・C丘陵、経塚子の方原A丘陵の年代観と概ね共通する(浦 添市教育委員会 2012、2013)。前田西前田原地区にはまだ未調査部分があることや、墓の移転など により現地に遺物が残っていない部分も多いため、ここでは限定的な評価であることを付記しておく。
2.墓の被葬者と地域性について
前田西前田原地区の墓の被葬者については、前田西前田原B丘陵の遺構から「浦添間切前田村」や
「前田村」「字前田」といった銘書が複数確認されているため、同丘陵が近世期から近代にかけて前田 集落の墓域として機能していたことや、そのうちの一部は戦後も使用が継続したことが判明した。ま た、蔵骨器の銘書が、所属する間切名もしくは村名を記載することや、屋号を記載することなどの特 徴を有することから、これらの墓に葬られた人々は判明した限りでは概ね百姓身分であることが確認 された。隣接する前田西前田原C丘陵についても、明確な銘書などの資料はないが墓の年代観や墓域 の展開などから総合的に考えて、同様に前田村の墓域である可能性が高いと考えられる。
これまでに調査を行った経塚子の方原A丘陵や、前田真知堂A丘陵、経塚南小島原A丘陵では、百 姓層と士族層の人々が混在した形で墓域を形成していたことが確認されており、その割合や造墓の前 後関係についても、地区や丘陵によって多様な様相があったことが判明している(浦添市教育委員会 2013、2014、2015)。今回調査を行った前田西前田原B丘陵及びC丘陵からは、士族層と思われる 銘書は確認されておらず、前田村の百姓層の人々の墓域として機能していたと考えられる点で、これ までの首里士族と百姓が混在する墓域の様相とは異なる。このことから、前田・経塚近世墓群のなか でも地域ごとに分析を加えることで、墓の地域性や階層性による墓域の形成についてその特徴をより 明確にできる可能性がある。前田西前田原地区の調査はまだ未完了であるため、今後の課題としたい。
3.墓にみる葬制と「代用品」について
前田西前田原B丘陵とC丘陵の中で、洗骨前の一次葬人骨4体について図示しつつ詳細な報告を 行った。一次葬人骨が良好な状態で出土したのは、前田西前田原B丘陵の 41 号墓と 56 号墓、前田 西前田原C丘陵の 13 号墓と 26 号墓である。それぞれの年代は明確には分からないものの、瓶や小杯、
人形などの副葬品類がおおむね近代に流通したものであることから、戦前あるいは戦中・戦後すぐの 時期に葬られたものである可能性がある。
その特徴としては、前田西前田原B丘陵の 41 号墓では磁器の瓶が副葬されているのに対し、それ 以外の 3 体についてはガラス製の薬瓶が副葬されている点が挙げられる。近世から近代にかけての一 次葬には、陶磁器の徳利や小杯が副葬されることが多いが、今回報告した 3 基の墓では、ガラス製の 瓶(薬瓶)が本来の用途を違えて「代用品」として副葬されたと推測される。同様にガラス瓶を副葬 した事例は、前田・経塚近世墓群の首里大名地区 22 号墓や、経塚子の方原A丘陵の 27 号墓などで も確認されていることから(浦添市教育委員会 2011、2013)、このような事例は個別的な要因では なく、戦前および戦時中の経済統制下においてモノが自由に入手しづらいという時代性を一程度反映 したものであろうと考えられる。
ほかに、前田西前田原C丘陵の 26 号墓の一次葬人骨には棺箱として金属製の容器が使用されてい ることや、前田西前田原B丘陵の 37 号墓では蔵骨器として金属製の缶が使用されていることも、や はり「代用品」であると考えられ、戦時中や戦後における時代性を反映したものであろう
4.戦跡としての前田西前田原地区
前田西前田原B丘陵とC丘陵については、遺構や遺物の残存状況がよくない点において共通してい
る。これは墓の移転によるものと、沖縄戦による遺構の改築や、砲撃等による崩落が主な要因である と考えられる。
戦争の影響をみてとることができる特徴的な遺構としては、図示して報告を行った前田西前田原B 丘陵の 4 号墓と 5 号墓が連結され避難壕として利用されたものが挙げられる。遺構内から第 7 図に示 したような茶碗類や歯ブラシなどの日常雑器がまとまって出土していることから、この遺構が戦時中 に壕として使用されたことは間違いない。前田西前田原B丘陵の 1 号、44 号、45 号遺構などについ ても壕としての痕跡がみられることや、同丘陵東側に位置する 19 号墓からも避難の際に持ち込まれ たと考えられる碗や皿などの日常雑器が大量に出土していることから、同丘陵の一部だけではなくほ ぼ全域にわたって、避難壕としての利用が行われたと考えられる。
前田西前田原C丘陵においても、1 号、2 号、4 号、6 号、28 号遺構が壕と考えられること、12 号墓、
21 号墓、22 号墓で戦争遺物が出土していることなど、丘陵のほぼ全域にわたって戦時中に改変され た痕跡や戦争遺物が確認されたことから、前田西前田原B丘陵と同様の状況であったと推測される。
また、上記の遺構から出土した遺物の中で、特徴的な様相を示す事例として、前田西前田原B丘陵 の 19 号墓の遺物を第 39 図に示した。器種組成は、碗や皿、湯飲みなどの食器類が主体で、なかに は戦時統制経済下に流通した製品に付される統制番号が記された岐阜県の資料も確認された。図示し たもの以外では貯蔵具であると考えられる沖縄産陶器の大型の壺や、大型の鉄製の鍋なども破片が出 土している。このような戦時中の避難壕から出土する遺物の組成や特徴については、同丘陵の北側に 位置する前田西前田原A丘陵でもほぼ同様の出土状態が確認されている(浦添市教育委員会 2015)。
浦添市史の第 5 巻に沖縄戦の米軍上陸直前に前田集落の南側の丘陵において住民が先祖の墓に避難 した様子や、近くに日本軍の陣地があり軍民が一時期入り乱れて生活を送っていた様子についての聞 き取り記録が収録されている。浦添村民のなかでも前田の住民は疎開に行きそびれたため、戦闘に巻 き込まれてしまった方々が多いという(浦添市 1984)。前田西前田原地区で確認された遺構や遺物は、
当時の墓に避難した人々の光景を想起させるものであるとともに、至るところでみられた砲弾痕や地 形ごと崩落した様相は、浦添・前田で繰り広げられた地上戦の激しさの一端を物語るものであろう。
以上が、前田西前田原B丘陵とC丘陵の主な調査成果である。今後、前田・経塚近世墓の調査成果 を集約していく中で、今回の調査成果は比較資料としての価値を有するとともに、資料が少ない近世 から近代にかけての墓制・葬制を明らかにしうる成果である。また、浦添・前田で繰り広げられた沖 縄戦の実相の一端を示す事例でもある。これらの成果について多くの方に活用頂ければ幸いである。
〈引用・参考文献〉
浦添市 1984『浦添市史 第5巻 資料編4』戦争体験記録(上・下)
浦添市教育委員会 2011『前田・経塚近世墓群2-首里大名地区-』
浦添市教育委員会 2012『前田・経塚近世墓群3-前田真知堂 B 丘陵(1)・前田真知堂 C 丘陵(1)』
浦添市教育委員会 2013『前田・経塚近世墓群4-経塚子の方原 A 丘陵(1)-』
浦添市教育委員会 2014『前田・経塚近世墓群5-経塚南小島原 A 丘陵-』
浦添市教育委員会 2015『前田・経塚近世墓群6-前田真知堂 A 丘陵(1)前田西上原 A 丘陵 前田西 前田原 A 丘陵』